善神王は、全國の神社で摂社や末社などで祀られていることも多々在ります?! ?/div>
大分県內(nèi)では、善神王に関するお祭りが盛んなようです。
大分市の加來神社~國東市の赤根社~竹田市の岡神社?広瀬神社のお祭が有名です。
善神王の読み方は、
ゼンジンオウ~ゼンジョウ~ゼジンノ(ウ)様などバラバラです。
バラバラだと気になる性格ですので、チリメンは調(diào)べて見ました。
善神王=五穀豊穣、無病息災(zāi)、家內(nèi)安全、長壽などの神様です。
善神王に神格化された人物は、武內(nèi) 宿禰になりそうです。
武內(nèi)(建內(nèi)) 宿禰
読み方は、タケウチのスクネ、タケノウチのスクネ、タケシウチのスクネなど???
宿禰(スクネ)とは、天皇が親しみを込めて朝臣を呼ぶときの呼稱のようです。
全く別人でも、
宇佐 宿禰、紀(jì) 宿禰、石川 宿禰など、○○宿禰と言う人が多數(shù)います。
712年の古事記や720年の日本書記などによれば、
12代景行天皇から16代仁徳天皇まで、
5代の天皇に283年間仕えた貴族の総理大臣。
一人の人物としては、300歳を超える超人的な壽命を誇ります。
國政の傍ら、関東や北陸へ視察調(diào)査や半島に討伐出張するなど大忙しです。
壽命の長さから武內(nèi) 宿禰は、架空の人物ともされていますが、
実在の場合には、
宿禰の名前を代々世襲した複數(shù)大臣の総呼稱だと考えられています。
もし、
一人の人物の場合は、5代の天皇のうち3~4代が架空天皇となりそうです。
直近では、
ご存知の方も多くいらっしゃるように、舊5円札などの肖像モデルです。
(チリメンは知りませんでした)
武內(nèi)(建內(nèi)) 宿禰に関する、チリメンの拙い調(diào)査では、
大和七豪族の開祖とあります。
朝廷の朝臣で大臣になれるのは、大和七豪族系の出身者のみとのことです~とても狹き門。
父は、欠史八代のひとり8代孝元天皇の孫とされる天孫系の貴族。
母は、スサノオ系出雲(yún)流の紀(jì)國造氏のお姫様(家系的には天孫系だそうです)
三貴神のひとり須佐之袁尊(スサノオのミコト)は、
その昔、天高原から新羅のあと出雲(yún)に降臨したとあります。
武內(nèi) 宿禰の年代資料をみると???????
彌生時(shí)代?邪馬臺(tái)國?三輪王権?ヤマト王権初期と幅広い年代考察となります。
しかし、
登場人名は難字難読記憶不可?家系も複雑諸説複合難解難儀?年代不詳都合創(chuàng)作誤記誤読??????
もう、????調(diào)査を諦めました。
もし、武內(nèi) 宿禰が実在したなら、
ヤマト王権が成立した直後の4世紀(jì)頃かも~?に留めます。
善神王さまのお祭りのご紹介
當(dāng)リゾート內(nèi)のお宮では、
不定期ですが9月に奉納神楽が地元の人により行われます。
(普段は、リゾート入居者のご厚意で、お宮の周りは草花が植えられています)
善神王祭(ゼンジョウサイ)=國東市の赤根社の秋の火祭り
大分市の加來神社から善神王の分霊を行い、200年以上の伝統(tǒng)があります。
重さ1.5トンの大松明に火をつけて、人力のみで起きあげるお祭です。
立ち上げられた大松明は10mの高さになります。
五穀豊穣の火祭りで、火の粉が掛かれば無病息災(zāi)のご利益があります。
ケペス火祭り=國東市の櫛來巖倉社 10月14日の火祭り
善神王と関係無さそうで有りそうな、語源も祭りの起源も不明なお祭りです。
~大きな焚き火の周りで、主人公ケペスとトウバが爭います。
火の粉が掛かれば、無病息災(zāi)のご利益があります。
善神王さま(ゼジンノサマ)=竹田市の郷社:岡神社と広瀬神社の秋の火祭り
高さ70mの櫓に沢山の小松明を燈して、三層天守閣を浮かばせるお祭です。
江戸時(shí)代中期より、380年以上の伝統(tǒng)を誇ります。
やはり、五穀豊穣の火祭りです。
やっぱり脫線
では何故?
武內(nèi) 宿禰は、五穀豊穣の神様=善神王として祀られたのでしょうか?
穀物神を祀る神社としては、稲荷神社が有名です。
稲が豊作で繁栄する稲実り→稲成り→いなり→稲荷(米俵のイネ荷とも~)
繁栄す農(nóng)業(yè)?工業(yè)?商業(yè)の産業(yè)神でもあり、神仏習(xí)合して稲荷大明神です。
主神は、スサノオの子:宇迦之御霊神(ウカノミタマのカミ)で、
お狐さまを使者として送り、日本 武尊の手助けをしたことも有ります。
この接點(diǎn)から、
日本 武尊(倭 建命)と武內(nèi)(建內(nèi)) 宿禰は、同一人物の説が有ります。
共に二人は、ヤマト王(後世に天皇と稱す)を補(bǔ)佐した人物です。
名前に使われている漢字が同じなのは偶然でしょうか?
古事記や日本書記の編集者の創(chuàng)作でしょうか?
その昔ひょっとしたら、
同一人物にすると、過去王権の歴史上、何か都合が悪かったのでしょうか?
また、武內(nèi)の內(nèi)という漢字があてがわれていますので、
武內(nèi) 宿禰は、日本 武尊に代わって活躍した身內(nèi)ないし従臣かも知れません。
日本 武尊(古事記の表記では、倭 建命)
12代景行天皇(古事記の在位71~130)の皇子で、倭國を平定して回ります。
天皇にはなれないまま、
最後には「倭の國のまほろば~」と四首読み病死してしまいます。
彼の子どもは14代仲哀天皇で、
15代応神天皇(古事記の在位270~310)は孫にあたります。
九州筑紫で生まれた応神天皇は、
のちに宇佐神宮で軍神の八幡大菩薩となります。
チリメン空想
武內(nèi) 宿禰または日本 武尊が、
新王権の為に、武力と知力で倭國を平定して回ったとします。
同時(shí)に生産性の高い改良稲も、平定した土地に持ち込んだと仮定しましょう。
人々は、戦が減って農(nóng)業(yè)に専従し、改良稲により更に暮らしが安定しました。
「武內(nèi) 宿禰さんは善い人だ。神様みたいだ。農(nóng)業(yè)の王様だ?!?/div>
「倭國初の総理大臣に感謝しよう、善神王としてお祀りしましょう?!?/div>
お祀りしたら翌年も大豊作。これからもお祀りを続けましょう~
五穀豊穣の為に~
善神王さま。
これからも、きつきリゾート共々、地球の繁栄を、宜しくお願(yuàn)い申し上げます。
????終わり????
ついで脫線~大分の名付け親:景行天皇
713年編纂の豊後風(fēng)土記によりますと、景行天皇が九州巡行の際、
大きな田を見て碩田 (オオキタ)を命名されたとあります。
碩田(大きく優(yōu)れた田の意味)=大きい田→大い(多い)田→おおいた→大分
実際は、大規(guī)模で小さく分かれた棚田をご覧になって大分になったようです。
現(xiàn)在の大分市及び周辺は、
古代では大分郡(オオキタのホコリ)と呼ばれていました。
701年大寶律令の9年前に豊州が、豊前國と豊後國に行政區(qū)分されます。
豊後國府が置かれた由來で、明治22年大分町になるまで府內(nèi)と呼ばれます。
明治44年に大分市になりますが、
市內(nèi)には昔を偲ばせる町名が殘っています。
府內(nèi)(ふない)??????県庁や府內(nèi)藩の城跡が近く~大分市の中心.です。
碩田(せきでん)????景行天皇が船で上陸されたとされる。
大友宗麟が南蠻貿(mào)易をした舊港に近く、
~市の中心地より北がわ海がわ。
古國府(ふるごう)????豊後國府があったとされる~市の中心地より南がわ。

?。ǎ剩揖胖荬尉么蟊揪€にある古國府駅)
久大本線????久留米駅から大分駅を結(jié)ぶ約141キロの単線路
日田?湯布院を通ることから、ゆふ高原線の愛稱もあります。
熊野神社のお神輿
毎年11月15日に、杵築市熊野の熊野神社のお神輿がいらっしゃいます。

(今年も、杵築リゾートの入り口にある公園に、熊野神社のお神輿がいらっしゃいました。)

(お參りをして、お神輿の下をくぐるリゾートの入居者の皆さん。無病息災(zāi)のご利益があります。)
文責(zé):チリメン「間違っていたらゴメンナサイ」
寫真撮影年月日 平成21年11月15日
擔(dān)當(dāng)スタッフ紹介

こばやし
岡山出身の美味しいものが大好きな食いしん坊です。よろしくお願(yuàn)いいたします。

サヨリ
杵築出身です。愛犬のあと毎日、城下町をお散歩しています。