本郷だるま屋
文化?歴史
ロイヤルシティ宮城蔵王リゾート/2025.02.27
日本各地に古くからある郷土玩具「張子(はりこ)」。宮城県仙臺市を中心に伝わる「仙臺張子」は、天保年間、伊達藩藩士の松川豊之進が武士の內職としてはじめたといわれています。伊達家の家紋にも用いられている「すずめ」や魔よけとして一家を見守る黒い「お面」、ほかにも「福助」のように商売繁盛の縁起物として親しまれている張子までさまざまにあります。1985年(昭和60年)には、仙臺張子は宮城県の伝統的工蕓品に指定されたほか、平成28年(2016年)度には日本遺産の構成文化財にも認定。その中でも代表格なのが『松川だるま』です。
毎年12月頃から繁忙期を迎える松川だるまづくり
だるまといえば赤くてまん丸の形をイメージしますが、松川だるまは顔まわりが群青色ですらりと細身。青色は宮城の海や空を表しているといわれています。そこに伊達政宗公が好んだ金色を彩り、おなかには寶船や福の神が描かれるなど色鮮やかな裝飾が特徴的。家の繁栄を願い、1年に1體ずつ、年末から翌1月14日のどんと祭りまでに前年より少しずつ大きなものを購入し、神棚に飾る縁起物です。「七転び八起き」になぞらえて、左から小さい順に8體並べるのが本來の祀り方で、9體目からは1體ずつ交換し、どんと祭りでお焚き上げ。七福神が宿っている寶船を描いただるまは、9年目に初めて買えるものといわれています。
本郷久孝さんと尚子さんご夫妻。九州をはじめ、全國から松川だるまに関する問い合わせがある。「まずは地元のだるまを飾りませんかと伝えています。それでも、仙臺のだるまに會いたいと思ったら來てください」(尚子さん)
松川だるまづくりを専門とする數少ないだるま屋が、本郷だるま屋です。創始者松川氏の弟子で、初代本郷久三郎から數えて10代目を數える本郷久孝さんと尚子(しょうこ)さんご夫妻が、當時のままの技術やつくり方を受け継いでいます。松川だるまの材料はまさに地産地消。約200年受け継ぐ木型に貼っていく和紙はおもに、伊達政宗公の指示で始まった仙臺唯一の手漉(す)き和紙の柳生(やなぎう)和紙などを使い、糊(のり)は三陸で獲れるツノマタという海藻。東日本大震災の影響で調達が難しい時期も続きましたが、徐々に地産地消のスタイルに戻っています。
七転び八起きになぞらえ、神棚に8體並べる。100年以上前から毎年買い足しにくる常連さんも少なくない
古くは天保の大飢饉の時に、庶民の心の拠りどころになったという松川だるまは、時を経て、震災時にも仙臺市民の支えに。「足元に流れついたというだるまが持ち込まれたのですが、それが偶然、うちでつくったものだったんです。まだ迎えに來られていませんが、貼り直して大事に保管しています」と尚子さんは語ります。もともと、武士の內職として始まった松川だるまに、最初から両目が入れてあるのは、武士が目を入れることで「隅々まで見守っている」と表現されているからだとか。現在も目は必ず男性が描くのが慣わしです。
目だけでなく、口や髭も男性が描き、目は最後に描かれる
久孝さんによると、長い歴史の中で、庶民のだるま離れが進んだ時もあったそうで、昭和末期頃には、目を入れない松川だるまをつくったこともあったと言います。「でも、やっぱり私たちは目を入れようと考え直しました。震災時には、大崎八幡宮の宮司さんから『やめたらダメだよ。どうしてもダメなら、うちの境內でつくっていいよ』と言ってもらえましたし、原料の高騰が著しい今でも『うちの和紙を使いな』とか『いい海藻があるよ』と言ってくれる常連さんも。いろんな方のお世話になっている私たち自身の、福のお裾分けと、勝手に思ってつくっています」(尚子さん)
(寫真左上)描いて乾かして、を繰り返しながら絵付けを完成させていく
(寫真左下)気候や濕度に応じて、和紙の貼り方も変えているとか
(寫真右上)おなかに描く福の神の土臺になる玉入り
(寫真右下)久孝さん愛用の硯は石巻市の伝統的工蕓品、雄勝硯(おがつすずり)
家庭円満だけでなく、就職活動中の學生や大病を患う子どものお守りになっているほか、松川だるまは海を渡ってロシアやウクライナにも屆いているといいます。「私たち自身、だるまを通していろんな人に出會えてパワーをもらっています。何かのパワーになるのなら、おつくりするしかない。この色や表現は、本郷だるま屋だけで受け継がれているものであり、松川だるまの原點です。それを守るのが私たちの役目なのかなと。緩むことなく、これからもつくり続けます」とおふたりは語ります。
本郷だるま屋より、大崎八幡宮に寄贈された3尺だるま。大崎八幡宮では、伝統工蕓の技術を殘したいとの思いで松川だるまを一年中販売している
取材撮影/2024年11月19日、11月20日
本郷だるま屋 (宮城県仙臺市青葉區)[現地から約44.4km]